NO111 納骨 その1

団塊おじさんは父の納骨の下見をする為に、我が家の宗派である、東山区の浄土真宗本願寺派 本願寺 大谷本廟 の墓地に行きました。

改めて、父が永遠の眠りにつくわが家の墓地をつくづくと見ました。感慨深く、万感の想いです。

人は、生れ落ちたその時から、天命のその日までを、人の生きる道として人生を歩み続けます。

時には、喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだり、そして、人として喜怒哀楽を共にする伴侶を見つけて、それらを二倍三倍に増幅して、人生を謳歌します。

でも、天命はいつかは、そっとやってきます。その時、人として生きてきた証しを残しておきたいと思う心は、人として自然な心ではないでしょうか。

生きてきた証しって何でしょうか?

戸籍があることが生きた証でしょうか?

愛してくれた人達の心の中に、思い出として生きる事が生きた証でしょうか?

遺影として写真に飾られる事が生きた証でしょうか?


何年でも変わらず、現世から生きた証として、後世にその存在感を示すものとして、私達の先祖は 「お墓」という構築物を考え出しました。

古くは古墳時代の土を高く盛り上げて造った墳墓というお墓や、もっと古くはエジプトのピラミッドの時代から、われわれの祖先はお墓に対する考え方にはいろいろあるものの、お墓という構築物を作ってきました。

そのお墓へお骨を納めるのが納骨の儀式です。仏事に弱い団塊おじさんに、墓地のなかで、
とある光景が目に留まりました。
こころは青春の団塊おじさんでした

 


 

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