NO 397 弘法大師空海と遣唐使 最終回

昨日に引き続き、四国の善通寺で行われた四国八十八か所霊場会主催の第43回昇補先達研修会で、講師として講義いただいた第83番札所 一宮時 ご住職のお話の続きです。


弘法大師空海が唐の都に渡った遣唐使船は、第16次遣唐使船でした。
遣唐使節が派遣された遣唐使船は第17次遣唐使船までで廃止されてしまいました。

西暦804年の第16次で海を渡った弘法大師空海は、日本に帰国する最後のチャンスであった西暦838年に派唐された第17次遣唐使船で帰ってきたのでしょうか?

ちょっと待ってください、
弘法大師空海が高野山で入滅したのは、西暦835年です。
西暦838年に日本から派唐された最後の遣唐使節が乗った、第17次遣唐使船が出航する3年前に、弘法大師空海はすでに高野山で入滅しているのです。


では弘法大師空海が強運にも、日本に帰国できたその交通手段とは何だったのでしょうか?

実は、唐朝時代の西暦806年に新しい皇帝「憲宗」が誕生しました。
そして日本からその新皇帝誕生を祝して新皇帝を賀する使節を送ることになり、その使節を乗せた特別仕立ての船が日本から送られることになったのです。

強運にも空海は次の遣唐使船を20年~30年待たずに、この臨時に仕立てられた新皇帝を賀する使節を乗せた船が日本に戻る時に、空海も一緒に帰国したのです。いわゆる特別臨時便船で帰国できたという訳です。

定期的な日本⇔中国大陸の交通手段を持たない当時の事情を考えると、まさに強運以外の何ものでもない弘法大師空海の帰国でした。

しかし、空海の日本への帰国は簡単なものではありませんでした。
西暦806年、唐の明州を出航して、帰国の途についた弘法大師空海は、途中再び暴風雨に遭遇してしまいました。

空海一行は難破は免れたものの、船はほとんど航行不能になり、漂着したところが日本国の五島列島福江島玉之浦でした。

もし難破したら・・・、もし難破は免れても漂着したところが朝鮮国であったとしたら・・・。大勢の弟子達が関わって書写された貴重な曼荼羅図や仏教経典などの、日本の仏教界に大きな影響を与えた書物は日本に持ち帰る事ができました。

歴史に、もしも・・・ということはありませんが、
弘法大師空海は最澄のように公費で遣唐使として入唐したのではなく、人選に漏れながらも自費で遣唐使に加われたこと、

第16次遣唐使船が4隻の船団として出航したものの、暴風雨でうち2船が難破遭難、しかし運良く空海は難破した船には乗船せず、漂着したものの入唐を果たしたこと

漂着した第16次の遣唐大使が、われわれは海賊ではないと皇帝に嘆願書をしたためたる必要に迫られ、その書類を空海に代筆させたこと

その空海の見事な書が皇帝の眼に止まったこと

潅頂を受ける青龍寺の恵果和尚が亡くなるわずか六ヶ月前に、胎蔵界・金剛界の灌頂を受けられたこと

当初は次の遣唐使船が来るまで20年~30年は帰国手段が無かったものの、幸運にも新皇帝誕生を祝う船が日本から来て、その帰国する船に乗って帰国できたこと

等などの幸運と偶然が重なり、日本における弘法大師空海の誕生となりました。
この強運を併せ持たれたお大師様は、帰国後多くの人のこころに安らぎと安寧を与えてくださいました。

余談ですが、
「護摩の灰」という言葉がありますが、これは弘法大師・お大師様が焚いた護摩の灰と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師が現れ、その詐欺師のことを言うようになり、後に転じて、旅人の懐を狙う盗人全般を護摩の灰と言うようになったと言われています。

相続に関する総合支援に 実績と実行力のある 相続手続支援センター京都 で頑張るこころは青春の団塊おじさんでした

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1948年(昭和23年生)
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