NO 427 東西本願寺と信長・秀吉・家康 その2
我が家の宗派は、西本願寺 浄土真宗 本願寺派、檀家寺は照円寺といいます。
昨日に引き続きそのご住職のお話の続きです。
ご住職のお話の中の登場人物は、顕如様(父)・如春様(母)・教如様(長男)・准如様(三男)と、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康です。
1576年、石山本願寺に籠城する本願寺勢力に対して、門徒衆を多く領内に持つ西国の有力武将毛利輝元は、顕如様(父)の要請により、石山本願寺に兵糧搬入を企てました、そしてここに信長との間に、第一次木津川口の戦いが始まりました。
この戦いで、摂津国(大阪)の木津川にて、九鬼嘉隆率いる織田水軍と毛利水軍が激突しました。その海戦で、当時最新兵器であった、焙烙火矢(ほうらくひや・手投げの焼夷弾)を駆使した毛利水軍の猛攻によって、織田水軍は壊滅し、毛利水軍は兵糧を石山本願寺に運び込むことに成功しました。
1578年、再度石山本願寺に籠城している本願寺勢力に対して、毛利水軍による第二次木津川口の戦いといわれる大規模な兵糧搬入作戦が実行されました。
しかし前回の失敗に懲りた織田信長は、焙烙火矢攻撃により炎上する木造船の欠点を補うため、織田水軍の九鬼嘉隆(よしたか)に命じて世界で初めての鉄鋼船7艘を建造させました。
そして その九鬼嘉隆率いる九鬼水軍は、鉄鋼船と大筒により木津川口沖で毛利水軍をことごとく壊滅させました。
毛利水軍敗退により石山本願寺への海上路よりの兵糧や武器の搬入はできなくなりました。そして石山本願寺は、この戦いを境として弾薬や食料の欠乏により、信長と戦う士気は著しく低下しました。
信長側は毛利水軍が敗れた後も頑強に籠城を続ける石山本願寺に対して、今度は密かに朝廷に対して和議を働きかけました。その結果、朝廷は本願寺へ「勅命」を発して、朝廷の斡旋で信長と本願寺は講和をする事ができました。
そして、講和に基づき石山本願寺の顕如様(父)は、石山本願寺の新しい門跡を嫡子で長男である教如様に譲り渡し、自らは石山本願寺から紀伊鷺森に退去されました。
相続に関する総合支援に 実績と実行力のある 相続手続支援センター京都 で頑張るこころは青春の団塊おじさんでした
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