NO 428 東西本願寺と信長・秀吉・家康 その3

昨日に引き続きそのご住職のお話の続きです。
ご住職のお話の中の登場人物は、顕如様(父)・如春様(母)・教如様(長男)・准如様(三男)と、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康です。

朝廷の勅命により信長と講和した顕如様(父)は、石山本願寺の新門跡を嫡子で長男である教如様に譲り渡し、自らは石山本願寺から紀伊鷺森に退去されました。

しかし、紀州雑賀や淡路の門徒達の一部は、長年の戦いの中で石山本願寺に届けられる兵糧で自分の妻子たちを養っていたため、石山本願寺の地を離れるとたちまち食べることにも事欠き窮乏してしまうのではと不安を募らせました。

そのため講和が整ったにもかかわらず、信長に対して、引き続き抵抗を続けるべきだと一部の門徒達が騒ぎ始め、教如様(長男)に具申されました。教如様(長男)もこれに同調され顕如様(父)が去った後の石山本願寺を信長に明け渡さずに抵抗を続けることにされました。

そのため顕如様(父)が去られた後も、石山本願寺は信長に抵抗する教如様(長男)の勢力が占拠し、朝廷の勅命斡旋による講和により石山本願寺を手に入れるという、信長の当初の目的は果たされませんでした。

このため信長は再び朝廷に働きかけて、再度の説得工作を行い、ようやく石山本願寺に立てこもって抵抗していた教如様(長男)の勢力も、この朝廷による説得工作を受け入れ、紀州雑賀に退去されて行かれました。

引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くしたとされています。これは退去を快しとしなかった教如様(長男)方が石山本願寺に付け火をしたたとされていますが、織田方の過失による失火ともされています。

こうして石山本願寺は、顕如様(父)退去後に長男の教如様が講和に反して石山を占拠したため、こののち本願寺は、顕如様(父)派と教如様(長男)派の2派に分かれることになってしまいました。

この内紛は信長の死後、朝廷の仲介により、顕如様(父)と教如様(長男)は和解されました。

相続に関する総合支援に 実績と実行力のある 相続手続支援センター京都 で頑張るこころは青春の団塊おじさんでした

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