NO 429 東西本願寺と信長・秀吉・家康 最終回

昨日に引き続きそのご住職のお話の続きです。
ご住職のお話の中の登場人物は、顕如様(父)・如春様(母)・教如様(長男)・准如様(三男)と、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康です。

顕如様(父)派と教如様(長男)派の2派に分かれることになってしまった本願寺でしたが、この内紛は信長の死後、朝廷の仲介により、顕如様(父)と教如様(長男)との間で和解が成立しました。

しかし、和解後、顕如様(父)は内紛の中心人物であった長男の教如様を廃嫡し、三男の准如(じゅんにょ)様にあてた遺言書にあたる「譲状(ゆずりじょう)」を書いて、三男である准如様を本願寺を継承する新しい門跡と定められました。

これは石山本願寺の退去に際して、講和を受けいれた顕如様(父)の退去派と、信長との徹底抗戦をとなえた教如様(長男)率いる籠城派との対立が背景にあったものと思われます。

ところが、顕如様(父)が死没されると、豊臣秀吉は廃嫡されたはずの長男の教如様になぜか本願寺を継ぐ事を命じられます。

しかし、顕如様(父)の妻であり、教如様(長男)の母である如春様(母)が秀吉に、顕如様(父)の遺志は教如様(長男)ではなく、准如様(三男)であると働きかけたため、翌年に教如様(長男)は秀吉により隠居させられ、弟の准如様(三男)が本願寺の跡を継ぐ事になりました。

~相続・承継問題っていつの時代でも深刻なのですね~

ところが、弟の准如様(三男)が本願寺の跡を継ぐ事で、この内紛亀裂騒動が決着したことにはなりませんでした。

秀吉の死後、教如様(長男)は徳川家康に接近し、1602年 家康から烏丸七条に寺地を寄進されて、翌年ここに御堂を建立されました。(これが現在の東本願寺です)
そしてこの時から本願寺は西と東に分裂されることになってしまいました。

家康は何故?、本願寺を東西に分裂させてまで教如様(長男)を宗主に再任させようと考えたのでしょうか?

家康の思考回路には、三河の一向一揆で窮地に陥れられたことで、宗教勢力に対する恐怖感を拭い去る事ができずに「本願寺を二分させ、対立させておいたほうが良いのでは」と考えたのではないかと思います。

そして家康の思惑通りに、本願寺の東西分裂によって、東西本願寺はお互いに対立関係に陥り、結果、東西の本願寺は戦国時代に諸大名を脅かしたような強大な武装宗教勢力ではなくなってしまいました。

信長・秀吉・家康の三人三様の本願寺への対応姿勢について整理して見ましょう、

 『織田信長』は石山本願寺と交戦しました。しかしその後朝廷の勅命により和睦講和し、        石山本願寺という宗教勢力の弱体化を図りました。

 『豊臣秀吉』は石山本願寺の存続を認め、逆に宗教勢力を懐柔しました。

 『徳川家康』は石山本願寺を内部分裂させて、その宗教的勢力としての弱体化を図りまし        た。

戦国時代を生き抜いたこの三人は、よくホトトギスに例えて

 『織田信長』は 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

 『豊臣秀吉』は 鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス

 『徳川家康』は 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス

と、その性格を伝えられていますが、本願寺への対応姿勢からは、また違った三人の性格を見る事ができるのではないでしょうか?

このように京都駅から程近い東西本願寺の誕生の歴史を振り返ってみると、いろいろな新しい発見があり、それを教えていただいた我が家の檀家寺である西本願寺 浄土真宗  本願寺派、照円寺のご住職の博識に 感謝 です。

ちなみに、冒頭の「何故西本願寺だけが世界遺産になっているのか?」という疑問については、今度のお彼岸のお中日でもご住職にお会いした時にお聞きして、また皆さんにお知らせしたいと思っています。

相続に関する総合支援に 実績と実行力のある 相続手続支援センター京都 で頑張るこころは青春の団塊おじさんでした

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1948年(昭和23年生)
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